方便としての嘘

ブログとかSNSという存在の意味がまったくわからないという人が年配の方でいらっしゃいます。日記を人に読ませて何が楽しいのかわからないと仰いますが、どういう言い方をしても、同じ問いを問い続けられるので、僕の予想では、まったく雲をつかむような話で、さっぱりわからないということじゃないかと思います。まったくわからない、と言っても何がどうわからないのか伝わらないので、わかりやすいように表現すると、日記を書きたくないし読ませたくないということになるのでしょうか。

そして、そういう人からすると、時事評論を趣味でやっていることなどは、意味不明のことであるので、パソコンに向かっている人に対して、言ったらすぐ言ったことをしてほしいのに、なぜすぐにしてくれないんだろうと、疑問を持つことになるようです。若干、キレ気味になりながら。

そういう時、自分がやっていることに、どういう意味があるのか、どうやって説明したらいいのか途方に暮れるようであります。どうやったらわかりやすく伝えられるだろう、どうやったら少しでも歩み寄ってもらい、そういうことも必要かなと思ってもらえるだろうか、と悩む。また、それが何の役に立つのかと聞かれても、よくわからない、自分にとって社会にとって。そして、金銭的リターンを得られるのか、それもわからない。だから、自分でもわからない所があるのに説明しがたい面がある。

でも、大人はそういうことではいけない、という意見を言っている人がいました。相手は、資格の勉強をしているとか、金銭的にリターンが望めるとか、そういう活動を求めているので、そう見えるようにふるまったらいい。相手が求めているものをそのまま与えてあげなさいということです。人と人はなかなか分かり合えないという面を強く意識している人でした。

というか、僕が、なんとなく誤解してわかった気になっているだけなのかもしれません。うーん、でも、哲学レベルでは、コミュニケーションが成立することは奇跡のようなことだという文を読んだことがあります。もひとつよくわかりません。人と人はけっこうコミュニケートできる感じがします。