信じ切れる能力

佐藤愛子さんのわが孫育ての書評を見ると、佐藤さんは、体調が悪くても自分に気合いを入れるので、直立したまま昏倒してしまったことがあると書いてありました。こういう強い気持ちを揺らがず持ち続けられる人は、そういう特質の人であると、弱い僕から見ると思えます。

しかし、本当は、僕だって、そうしようと望めばそうなれる。あるいは、そうならざるをえない環境に置かれればそうできる。ちょっとした分かれ道でどちらを選んだか。怠け癖、逃げ癖を断つことが、初期の段階でできていたら、そうできていた。そういうことはあると思います。つまり、僕でも強くなれていたのに、それを選ばなかった。

もちろん、強くならないといけない、というルールはないので、そうしなくてもいいのですが、強くあらなければ、色々困る人生ですので、強くなるほうを選んだほうが良かったのかもしれません。選びたくて選べなかった場合は、もっとそう思いますね。

しかし、逃げ癖がついた人に、君は逃げ癖がついている、と指摘しても仕方がない。おそらく、そのまま指摘してどう変わることもできないでしょう。そのままの話を聞いても、変わりたくても、変わりようがないという感じがします。逃げ癖がついた人がしなかったことを指摘するのではなく、大事にしてきたことを評価したり、また、やってみようと思えるような励ましをするということが必要な感じがします。

しかし、自己不信が強いとなかなか、苦しくなった時に、自分の行動を信じ続けることができません。これでいいのかな、失敗するのじゃないかな、というふうに弱気が出てきます。弱気が出てきても自分に大丈夫だと言い聞かせてなんとかできる人もいます。でも、それも信じ切れずに崩れていく人もいます。

こうしたい、という、切なる願いがあれば、それにすがってやり遂げることができそうです。そういうことは追いつめられた時にしか出てこないと思うので、自分にとって一番何が大事なのかは、自分を追い込まないと出てこない、そういうことがあるかもしれません。

僕は、恐怖から立ちすくむ状態の時に、気合いで何とかしようとするのではなくて、どういう工夫をすれば、少しでも前進できるかを考えます。気後れして電話できないなら、言う内容を全部紙に書いて読むという工夫をしたり、ということを考えます。それでもできないと、誰かに電話してもらって、直接会って話すとか他の方法を考えます。しかし、そういう小細工をし続けることで、正攻法として、自分の弱さを克服するチャンスを遠ざけるということもあるのかもしれません。

追いつめるとか、強制するとか、厳しい環境に投げ込むとか、そういうことも有効だと思います。しかしそうでないかもしれない。元々それで行けていたかもしれないが、今となっては、それが不可能なのかもしれない。

厳しい環境で努力した人のデメリットとして、ひずみが出るということがあるでしょう。いいことばかりではないと思います。やりきれなさを訴えずにいられなかったり、他の生き方に不寛容になったり。しかし、メリットもあって、自分で思ってもみなかったような可能性が広がったり、言い訳がましくなくすっきりした人格になるとか、折れにくくしなりがあるような強さが出るとか、でしょうか。

断食をすると、別に何を達成したわけでもなく、自分が素晴らしい存在だと感じることができるそうです。持続性はあまりないそうですが。座禅などでも同様なことができるかもしれません。でも、外界と関係する活動をして、自分の行動や結果を見て、それで自己信頼感を持つというほうが簡単だと思います。苦しみから必死で逃れようとして一気に潜在力を開花させるか、安全な場所に逃げ込んで、ゆっくり再チャレンジするか、どちらも正しいと言いたいところです。

しかし、お互いに違った体験をすると思うので、お互いに理解しあえるかどうか、歩み寄りが必要かもしれません。また、それほど苦しみがなく、暖かい環境でのびのび育ち、時期がきたら厳しい環境に飛び込むという理想的な経緯を経た人もまた違うと思うので、同様に理解しあうために歩み寄りが必要なのでしょう。