ストーカー殺人

恋愛感情は、人を狂わせる面があるということを聞きますが、想像するだけじゃなくて、実際に殺してしまう人がいるとなると、自分も怖いし、身近な人を保護しないといけない気分になってきます。いつ被害者になるかもしれない心配です。

しかし加害者になるかもしれない心配をする人もいるでしょう。誰かを好きになった時に、意識しすぎか実際にかわかりませんが、相手が自分を避けている感じがすることがあるとします。そういう時に、相手は自分のことをストーカーとして見て、不安や恐怖や嫌悪を感じているのでは?と思ってしまう人がいるのではないでしょうか。そこまで相手を嫌な気持ちにさせてまで、自分の思いを伝える(というよくわからない)ことをすることがいいものなのかどうか。

自分に自信があれば、ストーカーみたいに思ってない?そんなことしないよー、で済む話かもしれませんが、人と人との間に高い壁を感じる人は、ただでさえ高い壁で越えるのに勇気が要るのに、越えることそのものが悪という物の見方(自分=ストーカー=最悪人を殺す)が設定されてしまうと、さらに人間関係を結ぶことが難しくなります。

アメリカの映画で知った情報ですが、学校のダンスパーティーに、思いを寄せる相手に、一緒に行ってくれるよう誘うというイベントがあるようです。(男性が女性を誘うシステムらしい)それは、男女関係を好意的に捉えているまなざしの中で行われることのようです。(映画の中だけかもしれないが)

そこでも、断られたらショックだし体裁悪いし不安だけど、でも挑戦しないと後で後悔するだろうし、というような葛藤があり、言えたり、言えなかったり、うまくいったり、先約があったり断られたり、という、デリケートな心理展開があります。

一方で、相手は自分のことを殺人を犯しかねないストーカーだと考えているのではないか、という想定をせざるを得ない環境は、ちょっと過酷な環境という感じがします。最近はどうなっているのか僕には情報がないのですが、学校の教員の方々の考え方も、学生を子供扱いして、問題を起こさない人を最上位に置くというようであると、やりにくい環境です。その場もやりにくいし、学校を出てから、いきなり大人の世界になって、免疫がなくて困るという例が少なくないようです。徐々に学習していかないと突然沢山のことに一度に直面すると選択を誤ります。しかし、僕の持っている感じでは、学生時代は抑え気味で十分という感じです。働きだしてから、いろいろ経験を積んでいくので十分間に合う感じがします。

殺されるのが嫌であれば、家でテレビでも見ていればいいのかもしれませんが、(最近はそうもいかず、日常の生活スペースで深刻な被害にあう人がいます)殺し、殺されるほどではなくても、激しい感情体験をしたいという憧れもあるかもしれません。そこまで思うのは極端だとしても、身を焦がすような恋をしてみたいという気持ちはあるでしょう。あまり防衛ばかりしていては、そういうチャンスにも恵まれないでしょうから、冒険する時は必要かもしれません。ところが、あまり無防備に、相手を見ないで行動すると、ストーカー殺人のような世界も世の中には存在するということになっているようです。テクニカルに、いいとこ取りして逃げる戦い、ということかもしれないし、自分の気持ちを清く保つことで、そういう災厄を遠ざけることができるのかもしれません。自分に必要なことしか起こらないという説もあります。日常生活をしているだけで危険なことや倫理的に問題があることを何もしていないのに、深刻な被害にあった人をどう考えたらいいのか、というのはよくわかりません。尊い犠牲として何かしてくれたのかもしれないし、多くの人に何かを訴えかけてくれたのかもしれないですが、よくわからないというのが本当のところです。僕個人は、長年勉強して一流の学者になった人などが殺害されると、努力を無にするようなものすごい嫌がらせだと、今まで感じていましたが、最近は、誰しもそうなる可能性がありながら、できるところまで自分の人生を全うするつもりで努力し続けるというイメージで考えますので、過程重視になったから、結果は問わない考えになりました。人生として表現された形が大切なのであって、完成したかどうかはそれほど重要なことでない。カラマーゾフの兄弟が未完だからといって、全部ダメということもないように。

若い人たちには暖かいまなざしが必要、だと思います。

最近、僕の人生に対するイメージは、辛いことやうれしいことがある世の中をただ生きるということになってきました。実際は、じたばたしていますが、絶対的な価値基準で世の中を裁くことをしなくなり、どうやってもよくて、自分がしたいように生きるという感じです。