ノーマライゼーションへの困難

障害がある人もない人も、一緒になって働き、暮らす場所を想像してみると、それぞれ個性を活かして、足りない所を助け合って暮らしている、理想的なイメージが浮かびます。しかし、実際にやるとなると、(何をするのでも同じですが)問題が出てきます。

どうやら、沢山働く人が、働く量が違うのに、同じ立場であるということに耐えられない場合があるようです。なので、序列や区別を付けたがる、というふうになる。より多く働く人が、優越した立場について、少ししか働けない人を教え導く、という構造が発生する。そうでもしないと不公平を感じて辛くなってしまうみたいです。

よくできた人は、自分がそうしようと思ったからする、というだけであり、人と比較したりしないし、報酬を期待したりしない。(もちろん認めてもらえたり、褒めてもらえたらうれしいけど、それがないことを前提にやる)

そうでない人は、自分が苦労しているのと同じだけ他の人が負担してくれないと納得できない。協働という表現をすると、一緒に苦労を分かち合ってするというイメージで捉えられているのでしょう。少ししか働かない人や、やる気がない人が多いと、孤独を感じてしまうのでしょう。

その人が精一杯やっていれば、働く場が与えられるというふうであれば理想的です。やる気のない人の場合でも、その人の精一杯がそういう状態だと見れば、それでいいよ、というふうになるのではないか。また、その状態から少しでも積極性が出てきたら一緒になって喜べるのではないか。そこで自分と同じだけの労働を求めていれば、少し良くなっても、元の状態と五十歩百歩ということになってしまいます。

ハンディキャップがあるということは、仕事量は期待できない、もしかしたら質も、ということを思っておいて、あまり人をあてにせず、しかし受け入れる態勢は作っておいて、自分にできる範囲で小規模からやって、拡大できる状況になれば拡大するというのがいいのではないでしょうか。ちょっとお行儀がいい考えですが、最初から、質的、量的に負担を増やしすぎて、自分でこなしきれなくなって、人に頼りたくなって、その人のキャパシティーを無視して頼るということになっては、ちょっと物理法則を無視しすぎていると思います。物理法則を無視して行動したために、何かが生まれるということもあるかもしれませんが、ちょっとした賭けということになるでしょう。

あてにできる人を確保しておいて体制を組んで、あてにできない人が協力してくれる可能性に対しても門戸を開いておくという感じがいいのではないでしょうか。僕自身は、有償で回していく仕組みを作る能力が現在の所ないので、無償で考えていますが、有償にしたほうが安定するだろうとは思います。無償のシステムと有償のシステムを接ぎ木すると、各種摩擦が起きると思いますが。有償システムの中でも、うまく流れない所だけ有償設定するというようなことをすると、見かけ上、不公平が生まれて、それが気になる人も出てくるでしょう。

ところで、「当事者主体」というほうが、わかりやすいのか、ブームなのか、一般受けするのか、そちらのほうをよく耳にします。次のような段階を考えると、

支援者が、どうしたらいいか考える

支援者が、思いやりを持って、どうしたらいいか考える。

支援者が、当事者の意見を聞いて、どうしたらいいか考える。

当事者が、どう生きていくか考え、自分たちで行動する。

最終段階が、「当事者主体」になります。実際は、支援を仰がないとハンディキャップを抱えた人だけで、生活したり、経済活動したりというのは難しいと思います。意見を言って、異なる境遇の人に理解してもらうのが難しいから、自分たちでやるという発想転換だろうと思いますが、実際は、自分たちだけではできない。ということで、周囲の人との協働ということが出てきます。そこで、ノーマライゼーションのイメージを出せると思うのです。

しかし、当事者の気持ちを理解しがたいということで(理論的に)一度斥けた人を再度組み込んでいく、ということなので、互いにどこまで理解しあえるか、ということが問題になります。完全に理解しあえるというイメージではなく、理解しあえる部分である人とある人につながりができる。同様のことが他の人との間にもできて、ネットワークができる、そういうイメージを、僕は持っています。