ソフトランディングをさせるために努力する担当とランディングした後のことを考える担当

経済が後退局面になって、自分の親よりも物質面で節制しないといけない暮らしになっていくという場合、どう行動するか選択に迷うことが出てくる気がします。

一部例外を除いて、どんな暮らしでも節約が必要になると思いますが、超低価格のお店は、流通業者さんに過酷な契約を強いているとか、海外の人や環境を酷使するような契約をしているとか、もしかするとそうでもないのかもしれないけど、そういうことも考えます。しかし、自分の現状や先行きを考えると、少しでも値段の安いものを選んでしまいます。

また、今でなくても、将来デートや接待をすることになったら、外食をほとんどしたことがないというのでは不都合があるかもしれません。頻繁には無理でも、参加してくれた人がいい気分になってもらえるような、話しやすい雰囲気のお店の選定や場の演出などの勉強として、機会を見つけて行っておくのがいいと思われます。

しかし、本当は、そういうことはあきらめて、勉強につぐ勉強をして、職業的に自立することが先決なのかもしれません。先輩のみなさんが豊かな国を作ってくださったので、なんとなく自らを三代目風に捉えている所があるかもしれませんが、近親者は中産階級の所得水準、教育水準なので、それほど底上げしてもらえている感じもありません。ということは、一代目としての自己認識を持ったほうがいいのかもしれません。

ストレスをかけて仕事、勉強をすると、ストレス発散が必要になってきますが、それにお金がかかるということもあります。お菓子やお酒は、多分、体に悪いだけなんでしょうが、働いた後は欲しくなります。一方、心静かな暮らしを作っていくことを考えて実践すれば、体にやさしいごはんだけで心が満たされるかもしれません。これは戦略の違いかもしれません。向き不向きかもしれません。でも、僕は研究開発の分業として捉えたくなります。

お菓子に関しては、野草で甘い味のする草を取ってきてかじるのがいいのかもしれないし、いろいろ工夫してつくられたお菓子をありがたくいただくことで、経済が循環して、努力した人が金銭的に報われるというような構造を見ることもできます。

これらの迷いや悩みは、余裕があるうちに手を打っておけば、経済的後退が目に見える形で現れてきた時に、苦しい思いをする人が少しでも少なくなるだろうというような分野の問題だと思います。中間層から貧困層に転落する人が増えても、そこからまた物語が始まるわけで、苦しいことも多いかもしれないけど、人が輝く瞬間もあるでしょうし、それがダメだということもないのではないでしょう。ただし、食べ物に困らなかった人が、ダイエットのためじゃなくて、お金がなくて、食欲を満たせないという状態になると、調整が難しいと思います。だからそれは、自分で望まなくても、それしかできない状況になるということで、やむにやまれず慣れないといけなくなるというようなことだと思います。

貧困層の暮らしになれば、自分の家族と友達にしか関心を持つ余裕がなくなるかもしれません。今でも中間層にとどまり続けられるように維持しようとしている人、たんに子育て中の人、仕事が忙しい人のなかにも、国や国際社会の問題について関心を持つ余裕がない人がいると思います。関心がありそれぞれについて見識を持っておられる方もいらっしゃいます。関心がある人、話題にしている人は数多くいて、それをこだわって考える人は少ないかもしれない。

広い社会を見て関心を持つ余裕を持ちたいと思えば、働きづめでないと暮らしが維持できないというのではなくて、多少余裕がほしいものです。今、生計を立てることの重要性に気付いてなくて、ドロップアウトしていく人に、それだと後で困るよ、ということを言いたい、しかし、魅力的な世界観(がばいばあちゃんみたいに)を示せない、というような状況ですが、それはソフトランディングをさせるための活動で、世界観の提示や気持ちの持って行き方、もつれた糸をほどく作業などです。内省的な部分。それをしながらふと気付くのは、経済的に苦境に置かれてから、どう生き延びるかという問題に比べて、ちょっと浮世離れしているということ。今環境が甘えを許すような状態で、いろいろ説得しても功を奏さないことが、環境が厳しくなれば、動き出さざるを得なくなることがやはりあるでしょう。(あきらめてしまう人もなかにいるかもしれないですが)そして、その後どう生き延びるかについて、僕は自分自身のこともあまり考えられてないので、まず自分についてそれを考えることから始めたほうがいいかもしれません。(自分ができてないことを教えるというのは、無謀な試みというのが理由です。それは、言い訳にも使えますが、正論ではあります)

自分で仕事をするのでなければ、というか、自分で仕事をする場合でも、勉強として、どこかの会社にもぐりこむ必要があると思いますが、どの程度の割合かわかりませんが、相手の素質を正しく見て、来てもらうかどうか決める人はそう多くないのではないでしょうか。来てもらってから見えてくるという人は多いかもしれないけど。少し話をしてそれでどの程度までわかるのか。自分でやることを考えたら難しそうですが。プロフェッショナルとして人事部で採用を担当していらっしゃる方の力をあなどってはいけないと思いますが、そういう人にでも、人類の歴史全体を見る視点で見れば、時代の傾向にとらわれていたり、穴がなにかしらあると思います。まったく当てずっぽうですが。そこで、とりあえず、採用担当の人が神様のようにその人がここにいるべきかどうか見抜いてくれる、というのではないと見て、考えることは、相手の思いこみで”こういう属性が魅力的”と思っていることをこちらで提示するということです。僕は、高等学校の名前が有名だったようで、それで助かったようです。そんなのは僕の属性とほとんど関係ないとは思いましたが、それについて別に何も言う必要はないのでしょう。同様に資格試験で国が制定しているものは評価が高いようです。内容と関係ない気もしますが、多くの人が国の権威を信じているようであれば、それに合うものを、機会があれば取っておき、使える時は使うというのがいいのでしょう。

資格試験をその分野の知識を幅広くチェックするために使っている人がいました。その人は、それを使うということではなくて、忙しい中で、自分を追い込んで短期間でインプットする手段として資格試験を選んでいるのでしょうか。経営者の方も、新しい分野に参入する場合は、詳しくその業界についてリサーチするようです。紙の資料から現場の外見から働いている人の話を聞くことから、すべてやって、その業界について、誰より詳しくなった上で判断するということのようです。そういうことと同様に、資格試験を使って、インプット作業を行うと。しかも、免状を持っておけば、どこかで使えるかもしれない。

資格を取って、会社に入り込んで地位を確立、という考えを、昔聞くと、入ったはいいけど、仕事能力が伴わなくて、追い出されるとか、そんなふうに卑屈になって汲々としていたら、社会全体が縮小していく感じがしてました。でも、まあ、入って、勉強できるポジションを得るというのは、非常に重要なことであります。ここでも魅力的な世界観を提示できない先輩の問題というのが出てきます。もう、僕は提示する責任がある側の年齢でありますし、少し早めにその自覚を持とうとしていました。(でも、若い段階でそれを提示するのは、凡人には無理だったかな、時期尚早という気がします)

競争して、他の人を蹴落とすという問題に関しては、くじびきのように考えておいたらいいと思います。争いが嫌いな人も、争わずにいられる恵まれた環境のせいで、そう言っていられると思うので、兄弟が多くておやつを取り合いした、という時代の人が悪いということもないと思います。それでも破壊工作を行って人のものを取るというのは後味が悪いと思うので(だからといってそれほど悪いということもないように思います。少なくともそちらの選択肢を完全排除することで社会のありのままを見ないことになる)、とくに一つしかないものを争う場合は、相手をつぶすより、自分の良さを出す方向性を標準にしたらいいと思います。

後味が悪いというのは、人としてやるべきではないという理由じゃなくて、自分の苦しみを避けるためという意味で利己的で、問題を矮小化しているように思えます。しかし、人としてこれをやるべきでないというのは、自分を規制することはできるけど、そう思わない人に強制することができないから、人がみんな悪いことをしていても、自分はそうしない、そうしない人生を選んで、それに納得していくという、そういう問題として現れてくるような気がします。後味が悪いというのは、悪いことをしていく選択をした人は、そういう人生から何かを学んでいくことを選択しているのだと思い、それはそれでよくて、若いときに悪いことをしなかった人のほうが問題とよく言われます。しかし、世の中の標準としては、それは特別な方向性というふうに規定してもいいかな、と思います。規定してそれを破るのが楽しいということもあるし。

永遠に続く競争のイメージが圧迫的に感じられる人は、圧迫的に感じられる人はちょっと違うかもしれないけど、違和感があり受け入れがたいと思う人は、多分、それ以外の世界観が貧しいから、そこにひっかかるのだと思います。競争して勝つために世の中がある、というなら、そんなの別に参加したくないと思っても仕方ない。でも、それはちゃんと情報が伝えられてないという問題じゃないかな。