人間不信や絶望の乗り越え

大人が、絶望的な世界観、価値判断を示さないことが必要でしょう。しかし、相手が絶望するようなことを言う人が、少しの働きかけで変わるということも考えにくいので、子供のほうが、自分を守って、絶望的な世界観、価値判断を、信・じ・な・い、ということが必要でしょう。信じないというのは、大人の言うことを聞かないということなので、悪徳のようですが、自分はダメだとか、世の中はどうしようもない世界だとか、信じてしまうと後が大変です。命にかかわります。(子供でも、変なことは、うすうすわかると思います)

まず、信じないようにして、自分で別の価値観を探してみるのがいいでしょう。自分で追求していってもいいです。しかし、自分で追求する場合、(既知の)物理法則や社会法則から外れて生きることはできにくいので、大雑把な考えで行動するとやけどします。

ある人に聞いた話では、否定的な言説をはねのけられたきっかけは、このままだと自分の人生がダメになる、という考えが浮かんだ時から、ということでした。自分の希望、欲望、そういうものは、肯定されるべきというふうに思えたということでしょうか。

僕の場合は、自分の希望、欲望は後ろ暗いものという捉え方に早い段階でなっていました。思い返すと自分でも同意せざるをえないくらい、薄汚く、恥ずかしいことをしていて、それを指摘されて客観視させられるので、自分の素直な気持ちを否定するなり疑うなりせざるをえない感じでした。(逃げずに客観視させてもらったということで助かってますが)笑われたり辱められたりすると自己否定的になるようです。

といった状況なので、前出の人と同じように、自分の希望を叶えたい、という動機を持つことができなかったです。希望を叶えることが後ろ暗いことなので。自分の人生はダメになって当然に思うので。でもそれは嫌、という声が聞こえてきても、いやらしい考えのように見えてきます。

助かりたいのに、助けてと言えない、面倒くさい構造になってたと自分では思います。今思う感想は、面倒くさいことになってたな、というものです。時間が経って、ある程度傷がいえて、自分を観察して理解して、行動が自分の思うようにコントロールできだして、はじめて人前に出られるようになった、という感じです。