企業社会からドロップアウトしていく人は精神性が高いかという問題について

だいたいにおいて、不登校とかニートの人を念頭に置いています。

自己利益最大化、物質的充足、名誉欲求の充足、ステイタス獲得、そういう価値を盲目的に追求している人は、限定された仕事をうまくこなしていく能力には優れているかもしれません。迷わず目的を追求できるので。しかし、そうできずに、ひっかかり、迷い立ち止まる人は、不器用で、ドロップアウトしていく傾向にあるかもしれません。

ドロップアウトしていく人は、資質としては、もしかしたら、いいものを持っているかもしれないのですが、それで単にドロップアウトするだけだと、何もしないので、そのこと自体で価値があると言えないと思います。一方、企業社会に適応して頑張っている人のほうが、能力を増強して、大切な人に対して何事かができる人になっていっている、そういう人が多いと思います。

働いて、給料を持ち帰って、子供にひもじい思いをさせない、ということは十分に愛の行為であると思います。でも、最近、それ以外に必要なことが増えて、そちらに対応しないで、放置した人は苦境に置かれているようです。

それはともかく、ドロップアウトした人は、自分の良さが生きる場所を見つけてそこで頑張って、周囲の人にいい影響を与える循環が始まったところで初めて精神性が高いと言えるようになると思います。それまでは、働いている人のほうが精神性を高める機会に恵まれていることで、向上していっているから、実際は、負けていることが多いと思います。

働かずに精神性云々と言っていることが、これまでギリシャの哲学者とか貴族以外にできなかった贅沢な行為だと思うので、それに匹敵する成果を出さないと、順応するために精神性を押し殺して働いている人が怒ると思います。

高速で動いているので、息苦しい、のんびりした面がよさの人が生きられない、そういう面が一方でありながら、また一方では、自分が助けられて速く物事ができ、沢山のことが一度の人生でできる、という面もあるでしょう。逆に、一人でやっていると、どうしても遅くなってしまいます。量が少なくなり、人からの示唆も少ないので、質的にも不利です。それでも同じ事がいい面にも働き、自分の関心をどんどん追求していくことができるでしょう。偉い人を説得できなかったから、いい企画がポシャるということもなく、自分が納得したらそれで始められます。

分業ということを考えます。

ある種の個性を持ち上げすぎ、ある種の個性をおとしめすぎるという不公平を是正するために、ドロップアウトしていく人のいい面を取り上げるということが行われているのでしょうか。人間の嫌な面でつき動かされている人も、そういう動きの果てに、精神性が高まることになるかもしれず、現状でだけ判断するわけにいきません。

それとは別に道徳教育は必要だろうと思います。悪いとわかっててやるのと、いいとか悪いとかという発想がなくてやるのと違うと思いますので。

素質は良くても、磨かないとそれほどの輝きがないということかなと思います。みんな素質がいいとみることもできるので、磨いている人ほどいいということで、何もしない人は不利です。

目標を置くポイントは、価値の実現にしたらいいと思います。とりあえずお金にならなくてもいいということにしたらいいと思います。

【追記】不適応現象が出た時にその解釈が、あるいは世界観の提示が、質が低いもので、絶望を生んでしまう、それから、その後、新しく生きていく場所を探して模索するべき時期に、囲い込みすぎたり、放置したりしてしまう。そういう問題があると思います。

あれこれ言ったほうがいいのか、ほうっておいたほうがいいのかという問題は、実際にやっているとどっちやねん、というふうになりますが、いったい今どういう状態なのか、という現状認識を正しく行うことや、世界認識や人間把握や自分や自分の家族についての理解などを深くして正しく近づけていくことで、答えが見えてくるようなものだと思います。※答えが見えるというより、答えは事前にはわからないのだけど、こうしたらどうだろうというアイデアが出てくると思います。

僕の場合だと、あなたは見ていると何もとりえがないので「公務員」の事務職にでもなるしかないのではないか、と言われました。公務員にかっこを付けているのは、公務員といっても幅広いし、そんな簡単な仕事なんてないと思うからです。それから、親や親戚やテレビを見ていると、世の中はアホな人ばかりで、アホなことばかりが行われているように見えてきますが、実際は、かなり賢い人が点在していて、それぞれに自己利益を超えた活動をしてくださって社会が維持されています。それから家族愛を持っている人はもっと沢山います。さらに、世間や自分の考えと違うことに対して冷笑的な人が多いです。計画段階では価値がわからず、形が見えてから初めて評論する人が多いですが、計画段階で価値が見える人はどうやっても少なくなるのかもしれません。こんなことやって意味があるのかわからないということを続けてやらないといけない時は、挑戦をして成功した人の本などを読むといいかもしれません。登山家なんて、あんなことやって何になるんだろうと人が思うようなことに、真剣に挑戦していますので、その辺りの苦労と、人はわからないかもしれないけど、自分にはわかる物事の価値というようなことについても示唆があるかもしれません。

世界はすばらしく、人間は偉大で、自分は祝福されていて、理解されにくくても自分の道を模索していいし、きっとそのうちわかってもらえると信じていい、、、ということまで言ってしまうと、それを信じて行動している人はちょっと気持ち悪い感じになりますが、世の中に対して、変な陳腐なマイナスイメージが与えられるので、希望や意欲がなくなり、行動力がなえるという面があると思います。

余談ですが、誰かが考える理想像にあこがれるより、誰か実際に生きている人にあこがれたほうがいいでしょう。