自己肯定感不全の場合、能力を身につけることで、暫定的代替物になる?

自分がそのままで、愛らしいし魅力的だし話を聞きたいし一緒にいたいし感心するし感動するしいろいろ教えてあげたいというふうに扱われれば、いろいろ不足があるにせよ、今の状態を受け入れられて、これから不足を埋めていくような作業をしていけばいい。

しかし、そうでない場合、何かアクションを起こす時の抵抗感、不安感に負けてしまうかもしれません。あることをすることが正しくて、勇気のなさを克服するというゲームであれば多くの人が挑戦できるかもしれませんが、現実はゲームではないので、何が正しいかわかりません。自分がしないほうがいいということもあるだろうし、自分がすることで人の迷惑になる可能性もあります。

でも、最初は、迷惑をかけても、頑張っていれば、そのうち誰かの役に立てるようになるかもしれないし、そうなれなくても、自分のためになると思います。自分だけのためにしかならないというのは許し難い感じもしますが、自分だって大切にされるべき存在のうちの一人であるし、誰かから見たら大切にしたい存在かもしれません。将来、他の場所で誰かのためになる活動をするのに資することになれば、恩義を与えてくれた人の思いが実るということになるかと思います。しかし、最終的に、そこではやらずに他でやったほうがよかった、という判断になるかもしれません。それはそれで無意味ではないですが、それでも後悔はあるかもしれません。

こういうふうに、最初の時点での迷惑だけをスタティックに考えるのではなくて、長い目で見て、いろいろな選択をして生きていくことを考えて、ダイナミックな流れの中で考えると、固定的な判断でなく、その都度迷いながら判断していくことになると思います。スタティックな判断だと、簡単に結論が出ますが、それに従っていると、現実を無視している形になって、応用が効きません。(例えば、セクハラは良くないと一般に言えるけど、恋人にも性的関心を持たないとか、持っても言わないとかいうのは問題があるような気がします。友達でもおしゃれをしたら少しくらい関心を持ってほしい人、場合があるでしょうし、要するに人を嫌な気持ちにさせないというのが言えるだけかもしれません。ところが、それも、嫌な気持ちにさせても、叱るべきときに叱ることで感謝されることになるかもしれず、それも時と場合ということになってきます。)

これはしかし、渦中にいる人はわかりづらいと思うので、周囲の先輩に相談して決めていったほうがいいと思います。その人はその人の経験しかないわけですから、他の人のことがわかるかどうかわかりませんが、振り返ってみるといろいろなことがわかりやすいという面もありますので。

自己不全感がある人は、そのままで、人の中に入って行きにくい状況にあると考えられますので、能力を身につけることで、具体的に人の役に立てる状況になっておくといいと思われます。たんに能力を利用されるだけで終わることもあると思いますが、何かしてもらったらうれしい、逆に何かしてあげたいというふうに、循環していくこともあるでしょうし、とりあえず仕事のような関係ができるので、人の中に入っていきやすくなると思います。自分なんてダメで面白みがないから、話していても退屈だろうから、迷惑だからあまり頻繁に行けないな、と思っていても、仕事で用件があると必要だから行かないといけなくなるし、行っていいように思えます。

しばらく前の、これまで趣味で利用されていたパソコンが、一般の会社の中に事務用品として入っていく時期だと、若い人は趣味で使っていて習熟しており、社会の先輩のほうが暇がなくて勉強できてなかったという人が多くて、ある限られた部分で能力の逆転現象が起こっていたので、自己不全感があっても、少しは何かできるかな、と思える面がありました。しかしこれからは、先輩も使えるようになってきて、若い人はたんに無力という時代になるかもしれません。

本質的には、とくに何もしなくても自分はここにいてもいいと思えるようになれば、冷静な目で色々なことを判断していけると思いますが、実際的には、そうなれるまでの間、どうやって現実から後退しないで、挑戦し続けられるか、それを助けてくれるものは何か、ということになってくると思います。

プロ水準ではなくても、文章を書いたり、絵を描いたりする能力をのばしていくのがいいかな、と思っています。でもプロ水準を頭に置いて、向上しようという気持ちが大切かもしれません。