ワーキングプアという言葉を使う場合、使わない場合

困難な状況に陥っている人が一定の数いるなら、社会問題として訴えていくことができるでしょう。逆に訴えなければ、声が聞こえてこないのだから、社会の政策担当の部署にその必要性が伝わらない。よって対策がなされないから、困難な状況はそのまま変わらない形で続くことになる。ワーキングプアという問題があるよ、と広い社会、あるいは担当部署に伝えていくことは必要で、そういう場合、ワーキングプアという言葉を使って問題ない。

しかし、働くそれぞれの人は、自分の持ち場でいかに自分がやりがいを感じるようにするかが問題です。自分のものの見方を変えたり、実際に周囲に働きかけて、快適な環境にしていくことが必要です。そこでは、仕事に対して愛着を持ち、向上心を持ち、関係する人に愛情をかけ、一緒に暮らす家族といい時間を過ごしていくことを考えていくのがいいでしょう。もしかすると、自分の担当以上の仕事を抱えないようにうまく断ることも必要かもしれません。

でも、現場は、こんな生やさしいイメージが描けるほど、甘い状況ではないかもしれません。でも、そこでか、場所を変えてか、頑張っていかないといけないのだから、社会の末端で金持ちのためにあるいはシステムのために奉仕させられている奴隷階級としての自分、というようなイメージでは、実際以上に働いていて辛くなるのではないかと思います。そういう意味で、自分たちはワーキングプアだと言わないほうがいいような気がするのです。

しかし、自分は自分、今の暮らしはそれはそれで楽しい、というふうになれば、献身的に働いている人の家計が破綻する例が続出するというような問題が放置されてしまいます。というわけで、社会に対しては、ワーキングプア問題があるよ、と言っていかないといけません。時と場合よって、ワーキングプアになったりならなかったりということになるのではないでしょうか。

社会システム論で考えて行き詰まってきたら、仏教を勉強するといいのではないかと思います。仏教に関して僕はほとんど何も知らないのですが、知り合いの何人かの人がバックグラウンドに仏教を持っていて、けっこういいことを言われるので。