地球市民

日々の暮らしに追われているだけでなくて、ニュース配信会社の情報や研究者のアウトプットを活用しながら、地球規模の問題意識を持ち、生活や仕事の中でそれに対応した活動をするという人、そういう暮らしを希望する人もいるし、実際にやっている人もいると思われます。

しかし日々の暮らしを、過去の遺産の食いつぶしや未来の蓄えを前借りして、一時的な安定の上で、長続きしない形で、行い、そして、現実に力を持たない形で、趣味的に、地球規模の意識を持とうという人がいると思われます。

安定的かつ力を持つ活動をできている人は、最初からそういう成功が約束されていたわけでもなく、挑戦を続けるうちに、あるいは自らの志向性をそのまま伸ばした、あるいは目の前の課題を淡々とこなしてきた、そのうちに知らない間に結果がついてきていた、という感じかもしれません。

しかし、成功例は、だいたい、一つの職業を中心に置いて、成功を収めたのちに、多方面に広げていくパターンが多いのではないかと思います。成功を収めるまでは、一つを最優先にしたほうがいいのではないでしょうか。他の関心を切るという発想じゃなくて、一日24時間に収まりきらない時は、あふれた分はあきらめるという感じがいいのではないか。

それから、最近は、インターネットで自由に文章を発表できる、あるいはできた気になる、ということで、ある水準を超える努力をしなくても、文筆家になれる、なった気になる。職業としては、社会の分業体制の中でその分野を担当するには、一定数しか必要ないので、切磋琢磨して一定数に入り込む力をつける必要があり、努力しても適性がなかったりして希望が叶わない時は、他の分野へ移行せざるをえない。それはある面においては合理的で、職業的に成り立つまで努力し、さまよい続けることを強いられるということは、職業的に成り立つことをまず推奨するシステムであるともいえるでしょう。実際は、全員にそういう出合いがあるかどうか疑問があり、そこそこの努力があれば暮らしていけるシステムが望ましいとは思いますが。

趣味的、空想的になってしまうのは、まず、品質を問われないということと、それから、職業的な達成がない分、経験が不足していることにもよるでしょう。自分の本業において経験して身につけた技術が、実際の問題解決や問題解決のための企画に活かされる。また、本業を通して現実認識が深まり、それによって、問題解決のための企画に現実味が出てくる。経験だけで判断する人にも限界がありますので、内省や情報収集の重要性を否定するものではありませんが、日々苦労しながら行っていること、苦しい時お互いに助け合いながらチームで作業していること、そういうことの推進力をあなどるわけにはいきません。

学生は地球市民的でいられると思いますが、最近、あまり地球市民的な生き方の人気がないみたいで、嘆いている人が多いみたいですが、それでも、ごみの量が増えたり生き物の生育環境が悪化したりしていることに心を痛めている子供はいると思います。なんとかしたいと思ったり。それ以外の人は、資本主義的な繁栄のいい部分を享受したり、安定的に享受できるようにいいポジションを確保するという発想なんでしょうか。(※もっと深刻で不幸を避けたいという人のほうが多いかな)しかし、ポジションを確保するというのは、目的を問わず、誰もがやらないといけない所かもしれません。ただし宗教家は除かないといけないのでしょう。

地球市民的でいたい、将来そうなりたいという人は、先行してそうなっている人をキープしておくと安心でしょう。ポスターを貼ったり、著書を本棚に並べたり。そうしておかないと、それとは違う世界に身を置いた時に、初心を忘れそうな不安にとらわれるのではないかと思います。しかし、逆に、目標をつねに確認しておけば、大丈夫ともいえる。できれば身近にモデルがあれば一番いいのですが。