心的外傷

そういえば、僕は、小さい頃からずっと、社会集団への適応に問題があった。おかしいな、困ったな、誰か助けてほしいな、という思いはあったのだけど、あなたは、こういう病気で、治療すると良くなりますよ、と誰も言ってくれなかったので、そういう問題は、性格的な弱さで、克服対象、ということに、自然な成り行きとしてなっていたし、自分でもそう思っていました。

誰も、病気だと言わず、性格が悪いので変えなさいということが言われていると、変な「症状」が出ていても、それほどたいしたことに思わなかったです。病気としても軽傷なんだな、と思っていました。でも、よくよく考えると、かなり症状が出ていて、これはある種、病気だわ、と思いました。そういうレベルを病気と言ってしまうと、ほとんどの人が病気ということになるかもしれませんが、治療対象としてはっきり認識したほうがいい、という意味においてです。

僕は、苦しいので、むしろ病気になりたいと思っていた時期がありましたが、病気だと認められたら、苦痛の多い生活から救い出してもらえるのでは、という一方で、やっぱり、自分らしさを病気として認識されて、治療され違う人格に作り替えられるというSF的な恐怖もありました。これは病気が言わせているんですから、ということで、訴えをまともに聞いてもらえないというのを想像すると苦しいものがあります。

それから、部分的に体験したのですが、障害者として、保護や指導が必要な対象として、扱われていたり、固有名を持った一人の人ではなくて、集団の1パーツとして扱われていると、自分が、保護してもらわないと何もできない無力な存在であるように感じられます。続けていると、実際にそうなってしまうような気がします。プライドを傷つけられた、という話ではなくて、相手の評価に合わせて自分の人間性、能力が低められる、知らない間に、ということです。

さて、僕には、心的外傷のため、社会集団への適応障害があり、人間不信、自己不信、社会不信、様々な不安、緊張、そういうものがある、自分でそう診断することができました。性格的な弱さによって、適応障害が出ているので、無理してでも挑戦し続けて、克服することが必要だと、ずっと思っていましたが、心的外傷が原因していたとしたら、さらに傷をどんどん増やしていくことにもなります。慣れというものもあると思いますが、癒すべき所をさらに痛めつけている面もあると思います。

具体的にどういう症状があるかというと、手紙を交換していると、自分が書いたことに相手がコメントしてきますよね。手紙とはそういうもんなんだから。でも、そのコメントが、抵抗感が強くなって、読めなくなる。手紙を開封できなくなる、という症状。実は、これは、かなり取れた症状です。どうやって取れたかというと、友達に対して、自分で自分の嫌だと思っている部分を見せざるを得ない場面があって、それなのにその人はあまり反応しなかった。その人にとってはたいしたことでなかったのかもしれないし、嫌だけどまあそういう段階の人なんだろうと受け止めてくれたのか、別に、怒らないし、軽蔑しないし、去っていかないし、何も変わらなかった。そういうことが何回もあると、知らない間に、手紙やメールが開封できないという症状がなくなってました。

人間不信が取れたということだと思います。少しのことで怒ったりしないんだな、と実際に体験しないとダメなようです。なぜ、そういう症状が出るのか、自分なりには、理由はわかっていて、子供の時に何か意見を言うと、集中攻撃でつぶされて誰も味方をしてくれないという状況があったように思います。だから、何か言うと、総攻撃に逢うような恐怖が湧いてくる。そんなことないよ、と自分に言い聞かせてもなかなか、治らないんだなあ、と思います。でも、宣言することで、緩和すると言っている人もいますので、体験だけが方法ではないと思います。

手紙やメール以外では、相手の反応がかんばしくないと、すぐ嫌われたとか、距離を取られたとか、恐怖にとらわれます。頭で子供っぽい反応だなあと思っていてもフィジカルに即反応で出てきます。何か考え事をしていたとか、声が聞こえなかったとか、理解できなかったとか、総論賛成の各論反対かも、とか、友達は無理だけど、一緒にいる間は楽しくお話したいとか、いろいろ状況は考えられるのだけど、自分なんて邪魔なんだ、できるだけ邪魔しないようにしよう、っていう同じパターンで反応している。

あまりそういう症状があると、しょーもないことで、一喜一憂してしまう(少しでも好意を示してもらえると、すごくうれしくて舞い上がるので、あまり舞い上がって嫌われないように自制しようとしたりして、アホみたいですけど、でも、自分のことをアホみたいと言ってはいけないんですよね。大事にしてあげないと。でもこれもアホみたいに感じられる。これはしかしまだ理解が足りない。自分を大切にして満たされていると、いざという時に誰かを助けられる。その時、自分の気持ちを満たすために行動しなくて済むから。)ので、仕事にならんな、と自分で思うので、まあ変な所がありますけど、いろいろありまして、あまり気になさらないように、という感じで、そういう部分は放っておいて、自由に行動できる部分を使って仕事をしてきたように思います。

しかし、それでも、自分を機械のようにこき使っているということだから、心が満たされないので、体のコンディションも悪くなりがちです。結局、自分の本当に好きなことを、自分のためにしてあげるというような作業が必要になってきます。そして、どうしたら自分の心が満たされるのか知っていく必要がある。

努力して自分の弱さを克服していくというスタイルから、自分が生きたいように生きるのがいいというスタイルへの変更をせまられているのかもしれません。元々の状態に戻ってきただけのように見えますので、ものすごい回り道をしていたようで、むなしくなることがあります。(じつはかなりの苦痛)そして、無理して、自分を鍛えようとしても、時代的にストイックでいにくい状況でもあり、また、無理しているので、休息に時間を取られたりして、なかなか効率が上がらなかったので、努力しているつもりのわりに成果が全然上がっていなかったと思います。

今から、自分の心を満たすとかいうことに意味があるのか、今から、自分の心を満たせるのか、過去の心の穴ぼこを今からうめられるのか、自分で自分の好きなことがわからない人が、自分を再発見できるのか、そういう具体的な実践にかかわる問題がまずあり、それから、現実世界で生きていますので、経済の問題があります。自分の心を満たす作業をしている間に、経済活動が制限されます。お金の入りが少なくて、不安にとらわれると、心を満たすのは、不安ということになってしまうと思います。

問題は複雑ですが、人間は、生きるということは、様々な要素がからまりあっていると思うので、複雑で当然といえば当然です。個々人が自分の課題を見つめて、どう行動するか、その都度考えてやっていくしかないと思います。

最近、知った観点では、症状は、病気を治すために体が起こしている、というものです。心的外傷に対しても症状が大切なのでは、という着想から考えて、症状をよく見ることで、病気を治すためのヒントが得られる、ということになるような気がします。なぜそういう症状が出るのか、原因をさぐっていくと、どうしたらいいかが見えてくるような、あてずっぽうですが、気がします。

心的外傷に触れて痛む時、同じパターンで痛みを感じる、それはその時の痛みプラス昔の痛みであるし、他の人と比べて数倍痛んでいる、そういうことなのでしょう。そういう痛みを感じる自分を異端者と考えてしまいがちですが、それぞれ、各自、自分の傷を、必要なら、癒すという作業を行ったらいいだけのように思います。