専門家信仰について

予定しなかったことが人生に降りかかってきた時に、知らないから無視するわけにもいきませんから、これまでに持っている知識や技術で対応しようとするわけですが、それで対応しきれないとため息をつくときに、もし高等教育機関で体系的な知識を頭に入れていたり、もしたくさんのケースを見て経験を積んでいれば対応できそうな気がしてきます。

そういうわけで専門家に頼りたくなるのだと思いますが、でも、ここで、専門家に頼りたくなる気持ちを抑えて、少し頑張ったほうがいいような気がします。試験に受かっただけの専門家と、職業に就いてから研鑽を積んで高いレベルの知識や技術を身につけた専門家と、見分けることが必要になってくると思うからです。自分が判断停止になっていると、資格を持っているだけで頼ってしまうことになりかねないと思います。自分の受ける感じを大事にして、また、自分のこれまでに蓄積した知識を使って、相手の言われる内容を理解するようにし、それで判断されたらいいと思います。医学だったら、学校で習った生物や化学の延長線上にあるのだと思いますので、少しは知っていることもあるだろうし、その気になったら自分も医学部で勉強して、医者になれる可能性だってゼロでもないんだから、同じ土俵にいると考えることもできます。

なかには、自分の受ける印象だけで判断したり、自分の固定観念に合致する人だけを選んだりする人がいるかもしれませんが、できるだけ総合的に情報を入れて判断したほうがいいと思います。

ある程度、考えて、この人に任せようと判断したら、後はしばらくは、口を挟まずついていく、というのがいいという考えがあります。でも、常に自分では考え続けていったほうがいいような気が、僕はします。理想的には、疑問点を全部ぶつけて理解しあうことだと思います。

その一方で、専門家信仰も少しはしておかないと、自分のためでなく、社会のために日々身を粉にして働いてくださっている人を、少しも持ち上げないというのは、同じ社会の構成員として問題があると思います。しかしレベルが高ければ高いほど、普通に扱われたいという人が多いような気もしています。

それと、専門家にできなくて、自分にできるということもあるでしょう。自分の問題だったら、少なくとも、専門家がその問題についてかけられる時間より、自分は沢山の時間をかけられます。そういう量的なことだけでなく、質的にも、違った人間の素質があるし、違ったことができると思われます。