サバイバルという観点

サバイバルと聞くと、肉食動物と草食動物の生存競争みたいなイメージであったり、迷彩服を着て山でエアガンを撃ち合いするサバイバルゲームのイメージが思い浮かぶと思います。それからすると、自分が生き残るためには、何かを犠牲にしないといけない、何かを犠牲にしてでも自分が生き延びる、ということみたいな気がします。

しかし、(平和な状態では)人間は、殺し合いをすることは希なので、人を押しのけることに罪悪感を感じる必要はないと思います。押しのけられた人は、脱落して、世の中の闇の部分に吸い込まれていくということでも必ずしもなく、他の道が開けていくことが多いと思います。とくに現在の日本では。必要な場所で頑張れるチャンスが与えられるとみなして構わないかもしれません。

人を押しのけないと生きられないような環境だと苦しいな、みんなで譲り合って共存するような環境で生きたいな、殺伐とした世界で暮らすくらいなら、自分が席を譲る(死ぬ)ことで、少しでも圧力を軽減したいな。そういうふうに思う人も、今生きていて、そういうふうに優しいことを考えられるのは、生存を脅かされない程度の平和さがあり、飢え死にしないですむほどの食料や水があるという恵まれた環境で初めて可能だとも言えるので、貧しい環境から生き残ってきた人が、傷を負って人間性に陰影を帯び、人に対して必ずしも優しくなれない、といった状況に対して、説得力のあることを言うことは難しいような気もします。

貧しい環境から出てきた人はその人なりに、豊かに生まれついた人はその人なりに、自分の人生をよりよく生きるように頑張ったらいいと思います。物質的豊かさや物質的安定を目標にすると、それでいいのか、それだけでいいのか、という疑問が出てきて、頑張れなくなる場合があるでしょうが、よりよく生きるという目標に置き換えれば、頑張って生きて問題ないと思われます。人生を様々な障害を越えてよりよく生き抜くということをサバイバルととらえたらどうでしょうか。罠としては、物質的損失もありますが、自分の性質や天命を読み切れないとか(人生に納得できない)、怠惰に流れるとか、考え違い、気の迷い、低次元の欲望にとらわれる、など、様々なことがあると思います。そういう罠にはまらないように、時にははまりながら、最終的に、なかなかよくやった、と思えるような人生を送れるように、生き抜いていくことがサバイバルと捉えたらどうでしょうか。

自分の目標を達成するのに、補助としてお金が必要になることが多いと思います。そういうわけでお金儲けについても考えたほうがいいです。いちおうそれが標準としておいて、変わった人は、そうは考えないでいいとも言えますが、いちおう標準としては、そういうことにしたい。

サバイバルという観点を提出している作家さんの中に村上龍さんがいらっしゃいます。ここで言ったことと違う内容だと思いますが。僕なりにまとめると、、、経済的なことを軽視して、精神論を言う人がいるけど、それは社会を正しく捉えてないか、何かのためにごまかそうとしているということではないか、経済の重要性をもっと協調してもいい、というような観点だったと思います。サバイバルという観点は初期のころから出ていて、それは、コンピュータの部品みたいに人間性を押し殺して全体の中の一部分に収まって生き残るという戦略を拒否して、生命力を高揚させるような人間的な生き方を取りつつそれで殺されずに生き残るというようなことだったと思います。一言でいうと精神的に殺されることを回避するということでしょう。楽しく生きるために、現在、それを助けてくれるのが、経済力ということでしょうか。”強くなければ生きる資格がない、優しくなければ生きる意味がない”というような言葉がレイモンドチャンドラーの作品に出てくるそうですが、そういう感じで、自分の理想状態を実現するには、何らかの強さが必要で、それは鍛錬によって手に入るのかもしれません。

一方で、無垢な優しい人たちも世の中に存在できるようであってほしいと思いますが、無垢な優しい人たちが存在できるようにしたいな、という人には、力が必要になってきます。