協働ということに対して壁が立ちふさがっている状況

これは、自分の周りで、ということであって、現在の日本が、という話ではありません。

始めてみて、うまくいっている時期が短く、長続きしなかった、難しいなあ、という状況でありますが、見方によれば、これは、次の課題が立ち上がってきていると見ることもできます。越えることが可能であるか、その必要があるか、という問題もありますので、ここから何を学ぶか、という問題の立て方がいいと思います。

立場や考えが異なる人同士が働く時に、話し合いながら、時に、喧嘩をしながら、進めていくことになると思います。でも、思考力、コミュニケーション能力、相手に対する礼儀、そういうものが不足しているとなかなか話し合いになりません。摩擦が起こったときに、相手のせいにして、そこで認識しようという試みは終わり、後は、実力行使だけになります。

こういう場合、相手の不足を言うことにあまり意味はなくて、自分の側に改善する余地がないか考えた方が有益です。ある意味、自分ばっかり成長して得してしまうことになるから、人に対して親切でないような気がすることもあります。

相手に対しては、大きな見地から、成長を見守る視点が必要でしょう。それはあまり良くないな。伝えたいことは何?それだと、こういうふうにしたほうが相手に伝わると思うよ。みたく。そういう見地に立てず、感情的になった時は、ちょっと距離を取るのがいいでしょうか。

たとえば自分の嫌な部分と同形のものを見せられると、感情的になってしまう所があります。自分が変化したら、気にならなくなるかもしれませんが、変化を起こす場所は、そこの場所ではないと思うので、その時は、感情的になって、そして距離を取らざるを得なくなって仕方ないかな、と思います。しかし、それは、自己都合、自分の家族の問題によるものでしょうから、あまり相手の責任に帰すると、悪いと思います。

しばらく前の安定期の日本社会に特有の考え方かもしれませんが、世の中のことは全て理解できるという発想があるようです。だから、わからないことが起こると、わからないな、と言えずに、わかっている振りをしたり、誰かに教えてもらおうとしたり、教えてもらえないと、ヤブ医者だの、ダメ教師だの、と相手を非難したりしてしまうようです。しかし、世の中の誰も知らない領域が世の中にあると思っていれば、そう無理にわかろうとしないと思うのですが。少し探せば、知っている人を見つけることができる問題も多いと思うので、探すことに怠惰であってはいけないと思いますけれど。

わからないことをわかっていると言ってしまって、その後、一緒に考えを進めていくことは難しい。もう既に嘘が入ってしまっていて、嘘を塗り固めていく動機は、自己保身だから、問題の冷静な検討のために必要な公平性が欠けてしまっています。早く理解して、早く行動して、早く終わりにしたい、と思っても、そう簡単でないと感じたら、腰を据えてやらざるを得ません。世界のありようを無視して、自己都合で、こうあってほしい、こうあるべきだ、こうあるはず、という、願いと理解を混同して行動し始めると、目をつぶってでたらめに表を歩く、という状態になる、と思われます。

しかし、こうやって、うんたらかんたら、ごちゃごちゃ考えている暇が、普通の人には、あまりないと思われます。そういうふうに思うと、考える暇があった人は、恵まれている人であるので、あまり恵まれない人を悪く言うべきではないかもしれません。それと、もう一つ。物思いにふけるタイプの思考と、行動の中で問題にぶちあたって身につけてきた思考とは違うと思います。優劣の問題ではなく、両方あるといい、ということだと思います。しかし、物思いのほうは、なくても生きていけるかも。しかしあればあったで便利ということかもしれません。

なぜか、自分のものの見方を磨いていくことが、色々な問題解決のために有効だという気がします。会社は社長の器以上のものにならないという認識があるようですが、それに関連する話かもしれません。行動しなくても認識を深めていけば、周囲が自動的に変わっていくという感じすらします。これはエネルギー的なことを考えなくても、常にそういう認識で発言し、行動していくから、知らず知らず周囲に伝わり、影響を与えていく、というふうに考えることができます。

まず、相手の不足を、不足だ、と言う地点から、相手がその不足を越えてどうやって成長していけるか考えるという地点に移動することを考えたらどうでしょうか。勉強しない子供に勉強しろと言ってすることは希だと思います。なぜ必要なのか説明したり、楽しさを教えたりすることがいいでしょうし、そう言おうとすると、なぜ必要なのか自分があまりわかってなかったり、自分は別に楽しくないと思っていることがわかったりするかもしれません。そこで誤魔化さずに、そこから考えたらどうでしょうか。よくわからない所から模索して生きていくのが、生きた、という感じのする生き方じゃないでしょうか。

学び合い、というコンセプトがいいんじゃないか、という提案がありました。自分や相手の段階やキャパシティーを考えて、という条件付きで賛成したいです。