神戸アートビレッジセンターの映画

”空気が読めない人”(以下KY)に困惑し、排除するというような問題意識が、世間であるそうです。具体的には、KYの人にいちいち引っかかっていくことかと思っていたら、何も言わないで敬遠する感じだ、という話を聞きました。僕も、そういうことは、美的に良くないと思ったので、反対したい気持ちでしたが、ある時、新聞で連続ドラマのその回のタイトルを見ると、KY問題に対してのアンチテーゼが感じられる内容でした。具体的には忘れてしまったのですが。

欠点をあげつらうよりも、それぞれの人が長所を伸ばしていくようにしないと、だんだん生きづらい世の中になりそうだから、そのほうがいいね、というより、やらないとえらいことに、という切迫した思いが僕にはあります。空気を読むとかは、かなりハイレベルな技術だと思うのですが、それができないことには排除される、マイナスポイントをお互い勘定しているというのだと、欠点をなおすほうに関心が行きすぎると思うからです。そして、細かいことを気にせずいいところを見るようにすると、いままで活用できてなかった人や人の能力が社会に活きてくると思うからです。

しかし、現実問題、ソーシャルスキルが低い人があふれてくると、いろいろやりにくくなってくると思うので、KY問題について話し合われることは必要不可欠なのかもしれないです。でも、ある能力が必要と言い、それがないと生きていきにくいと表現することで、びくびくしながら生きて行かざるを得ない社会をイメージさせ、脅しのような効果があるという意味で、美的に問題がある表現だと思いました。

さて、神戸アートビレッジセンターのホームページを見ていると、横浜聡子監督の「ジャーマン+雨」という作品が載っていました。これはトラウマについてのアンチテーゼのような感じがします。他人からみると不幸で、不幸からひねくれてしまったように見えるのだけど、本人はいたって前向きで、思いつきのような希望を抱いてそれを実現すべく次々行動し、楽しんではいないかもしれないが、人生を謳歌しているような存在です。不幸や苦痛からトラウマを形成したりせず、流したり反発したりして生きていくことは可能なのかもしれません。この作品の中では、トラウマは、小学生のトラウマを話させてそれを歌詞の材料にして自分が歌手になるというような扱いで、軽く扱われています。トラウマを形成せざるをえないような状況があっても、そこで立ち止まらずに進むことは可能だ、という主張のように思えます。この主人公は進むことを肯定しすぎて、それが本当にこの人が生きたかった姿かどうかわからない、という気はするけど、実際に生きている人でも、必要以上に立ち止まっていないで、やぶれかぶれででも、前進する可能性について考慮してみてもいいかもしれません。(注意:作品を見ないで言っています)

主演の野嵜好美さんの過去の出演作品にも興味があります。「道」(山下敦弘監督)”あまりの身勝手さから現場が崩壊していく映画監督”(生命に忠実に行動するとどうなるかという問題意識でしょうか)そして、「彼女が歌う理由」(本田隆一監督)(そんな無茶な!に収録)”全裸で歌う流しの歌手”(”彼女が歌う理由”がやっぱり気になります)

それから、松江哲明監督「童貞。をプロデュース」という作品も載っていました。これはドキュメンタリーだそうです。説明書きで、23才にもなるのに、キスもしたことがない、というのが、異常なことのように書いてありましたが、まー、40までにできたらいいんじゃないでしょうか。標準をあえて設けるとすれば。一生しなくたっていいと思いますけど。他にすることはいろいろあるでしょうから。

キスやセックスに関しては、する/しない、というより、うまくできるかどうか、という問題のほうが重要なんではないでしょうか。人格的な問題もありますし、コミュニケーションの経験や技術や乗り越えの問題もありますし、世界観の問題もありますし、気の循環のこともありますし、普通に技術や体力の問題もありますし。身体的接触をしないでも、深い関係というのはありえると思います。つまり普通に思う技術的なことの重要性は相対的に低いのではないかと思います。現状、身体的接触をしたことがない人を必要以上に脅している感じがしますが、どうでしょうか。

それより、女性や少女に対する性的な暴力が広まっている、あるいは報道が多くなっている、ということで、男女の間に溝を設けざるを得ない事情が問題だと思います。自分に矮小感がある場合に、勇気を出して、自分の気持ちを言うことにはただでさえ抵抗感があると思うのですが、現状、そういうことはいいことだ、という感じではなく、この人は犯罪行為を犯すのではないかという警戒や怖れのまなざしで見られているという感じが、抵抗感を倍加するというふうになっているのではないでしょうか。そういうふうに見られると、自分で自分を清廉潔白だ、と思っているというのもおかしいので、だんだんそういう気がしてきたりします。

普通とは違う形の関係が露出しすぎだと思いますので、普通の形をもっと宣伝したほうがいいような感じがします。お見合いが広まっている感じがしますので、それはいいんではないでしょうか。

ちなみに、僕はセックスの指南書を買って持っていますが、あまり見る気がしないです。何でかわからないんですが。何にしても、自分の限界を超える修行として捉えられますが、そういうことで気が重くなっているのでしょうか。