プロフェッショナル荒井良二さん

ちょっとテレビを付けたら、NHKのプロフェッショナルをやってました。荒井さんの近作の制作舞台を見せてくれてましたが、まず、混沌とした状況を作るために、下書きなしでストーリーも考えずに、描き始めるというアイデアを採用してました、今回。

そして、次々ばらばらな絵を描く。まず手が描きたいように描かせて、自分の大人の考えを超えるようなものが出てきたら、これでよしとする。何と決めずに描いていき、それに意味をもたせるのは後でやるのだが、自分で描いたものが自分で何に見えるか判断するときに、当たり前の解答だと、よしとしない。えっ?とびっくりするような解答が得られるまで、よしとしない。うまい答えが出ると自分でもうれしくなってくる。いいじゃん。見ているほうも答えの突飛なんだけど成立している様に、いいなあ、と思う。

コーヒーカップのダンス。帽子の家。常にあちこち移動するロックもしくはフォークな橋。しかし、ばらばらな絵を描いて、それを絵本にどうするか。登場人物を描き足してストーリーを作るようでは、既存の絵本と変わらない。そういう安易な逃げ道に逃げないで何とかできないか苦闘がある。電車というアイデアがひらめいた時に、解答がするすると出てきたみたいで、絵本のこどもが電車に乗ってやってきて、それぞれが小さなお話を語ってくれる内容が以下に続く、みたいな構成ができた。

驚くべきは、最初に決まっていたタイトルが、絵本のこどもであったこと。こういう内容にするって決めてなかったのに、最終的には絵本のこどもという絵本になってしまった。そして読み手からしても、1コマしかない、奇妙な情景を見せられて、想像力が刺激される内容が展開されるので、見ていて触発されるすぐれた作品になったのではないか。

荒井さんは、見る人が新しいと感じるものを作っているのではなく、自分が見て新しいと思うものを作っているという意味のことを言われていたけど、制作風景を見ているといわんとされることがわかる気がします。事後的に見れば、奇妙な情景の提示をするために、便宜的に絵本のこどもが出てきた、というふうにも見えますが、奇妙な情景を提示する、というような目的が決まっていない所で、そういうものが出てきた、そしてなんかちょっといい感じになった、ということで、そういう過程を知らない人が見ても、何かはっとする所があるかもしれないし、ないかもしれない、予定調和でない分なんかあるんじゃないか、というようなものだろうか。

なんかぐっとくるものを提示したい、というのが目的といえば目的なんだろうから、これまでになかったパターンを提示したい、新しさにびっくりしてほしい、という人とは目的が違うというべきでしょう。そういう人だと、これまでにあるなしで判断していくのでしょう。村上龍さんだったら、必要なものを作る、現実世界、現代日本を生きている人が時間を割いて読むに値するようなもの、読むことでプラスになるもの、そういう感じでしょうか。でも、誰についても、混沌状況からのひらめきに頼っていたり、自分の感性で、しっくりくるぐっとくる、という判断基準を使っているのだろうから、あまり違いはないと思います。荒井さんが、人からみて新しいものを作っているわけじゃない、と言われるのは、こんなの誰それが先にやってるよ、という見方について釘をさしているのでしょう。そういう見方でなく、はっとするとかぐっとくるとかそういう部分で見てほしいということでしょうか。

たまたま先日、神戸で、荒井さんの個展を見てきました。その時は、驚きに満ちた絵であるとは思いましたが、ぐっとくる所までは行きませんでしたので、僕の置かれている状況には必要がないのか、微妙な感じをもっと大げさにキャッチできるようになったほうがいいのかよくわかりませんが。