親切について

自分にしてほしいことを相手にしてあげるというのが、最近は多少できるようになってきて、でも、次の段階が問題となってきました。自分とは違う相手のニーズを推し量って、それを満たすようなアクションを企画実行するというようなことです。自分とは違うニーズを想像できないと、求められてないサービスをしてしまうことになります。自分がよかれと思ってやって、相手から困ったなーと思われるというのでは、相手に負担をかけるし、自分も、喜んでもらえないのだから寂しいものがあります。

前だと、ありがた迷惑になるかもしれないけど、とりあえずやってみて、駄目だったら謝るなり、保障を考えるなりしようと考えていました。自分のやろうとしていることの評価ができず、迷ってきたら、目をつぶって実行して、失敗したら、後で対応する。でも、受け手からすると、いきなり唐突に暴力的な行動がやってきて、相手は去っていってしまい、苦情を言うと、やたらと謝ったり追加であれこれ提案してくるように見える、はず。なんかしっくりこないんだろうと思います。

なかには、職人さん風の不器用な愛情表現として、この人は親切がしたいんだなあ、と好ましく捉えてくれる人がいるかもしれません。しかし、そうでない人のほうが多いでしょう。

まずは、相手のニーズを探り、得られた情報からサービスを設計し、提供しつつ相手の反応を覗って、どの程度ニーズを捉えられていたから判断し、それによってアフターケアを考える。

どういうニーズがあるのか、言葉で聞く手もあります。でも、質問の仕方によって答えが変わってくるということもありますし、ニーズを読むことは難しいことのようです。

それから、相手の立場に立つと、礼なんていらねえぜ、ということを言われて去って行かれると、サービスをもらいっぱなしで、負債感覚が残るのかもしれません。何かしてもらって受けて、お礼を言ってそれを受けてもらって、それですっきり完了ということだと思うので、お礼を受けるのも相手の気持ちへの配慮ということになるのだと思われます。挨拶されたら挨拶を返すようなものですね。返ってこなければちょっと嫌な気持ちになり、しばらく引きずってしまうこともあります。

全般的に、丁寧に物事を行うことが必要な気がします。

前の自分の内面は、こんな感じでした。みんなに幸せになってほしいけど、自分には力がないし、あまりいいものじゃないけど、精一杯でこれです、要らないかもしれないけど、ここへ置いておくから、もし必要だったら取っていって。実際やってみて、必要ないものは要らない、品質が低いものは使えない、それだけのことだったような気がします。何もできないときは何もしないで、自分を高める努力をしていって、将来的に何かできるようになってからやったらいいのだと、今では思いますけれど。

そうそう、誰かといる時は、ひとのことを中心に考えて、自分一人になってから自分の内容を反省したらいいのではないかと思うようになりました。自分が過ちを犯さないように、誰かといる時も、自分の発想を常にチェックしている感じでしたが、それだとひとのことを考えている余裕がなくなるのです。