ユーモアとニヒリズムとイロニー

1992年5月群像臨時増刊号に、ユーモアに関する話が出てきます。(柄谷行人さんと高橋源一郎さんの対談)

ユーモアとは、ここでは、冗談、おふざけ、エスプリ、ウィットなどとは違っていて、困難な状況に置かれた時に人が取りうる一つの精神態度だそうです。ユーモア以外に、ニヒリズムやイロニーがあるそうですが、ユーモアがわかる人は、最終的な到達すべき理念や目的を持たないが、ポジティブであることができるらしい。目標があってポジティブだというのは理解しやすいけれども、目標がないのにポジティブであるというのは理解しづらい。気をつけていないと、両者を混同しそうになります。

ニヒリズムに関しては、目標を求めているけれど、それが期待できないとなると、全部投げ出すようになるということで、目標を求めていることは求めている。方丈記の出だしの部分で語られる、歴史を流れとして見るような視点もニヒリズムに入るのでしょうか。

イロニーに関しては、困難に直面して、主体が危なくなった時に、現実あるいは自己を軽蔑することで、高次の自己を確認するということだそうです。

それ以外に、ペシミズムというのもありますね。悲しくなって泣くってことでしょうか。

この話では、ユーモアというのがかっこよく描き出されているので、自分もそれに同一化したくなりますが、この本が出た当時、イロニーのほうが優勢だったようです。そのほうがかっこよく見えていたよう。

ニヒリズムとイロニーに関しては、主体の一貫性を保つということが最優先で、他のことは二の次になってしまう気がします。そういうことでは、思い当たることがあります。

友達が、風邪を引いて寝込んでいる時に、僕はメールを送って返事がないので、何か気に障ることを書いて、気を悪くさせたんだろうか、と心配になって、追加して言い訳を書いて送ったけど、返答がない。仕方がないので、しばらくこちらからはメールを送りませんが、何か用事があったら遠慮なく言ってくださいと書いて一旦終わりにしてみました。しかし、実際は、風邪を引いて寝込んでいるので、食べ物で困ったり、用事を代行してくれたら助かったりということがあったかもしれないのに、何にも助けになれてないわけです。寝込んでいて連絡できなかったかもしれないし、遠慮して言いにくい時に言いやすい雰囲気を作ってもらえなかったから言いにくかったということもあるでしょう。つまり、相手を気遣いたいと思いながら、実際に僕がやっていたのは、自分の気持ちの安定のみであり、もし嫌われていても事前にそれに気づいておくことでその時に受けるショックを和らげようということだけであり、のちにわかった状況を客観的に見ると、相手のために何もできてないことがわかります。(本当に嫌われていても、そういう読みをせず、病気の可能性を心配して、さらに機嫌を損ねるということになってもいいのです。そっちへ間違えるのは自分が恥ずかしいだけなので問題ない。)

主体の安定のみを(それとは知らず)気にすることで、客観的に見て、自分で不満足な人生になってしまうということが、実際にあるような気がします。ユーモア的な態度を取れるかどうかという問題は、主体が不安定であっても構わないという態度を取ることで、一つのとらわれを解放することで、何に注力するか判断しやすくなるということだと思います。それとは別に、何が本当に大切か見ていく作業が必要になってくると思われます。

それと、目標があるとポジティブになれるということはあると思います。ただ、それが、本当に困難な状況では機能しないということが問題といえば問題でしょうか。

ここでいうユーモアがある人は、くだけた人というより、くそまじめな人ということになるそうです。

個人的には、困ったり、難しいなと思う時に、できるだけ面白い所を見つけて笑うことができるようになってきました。これに関しては、面白がるポイントは自分の趣味が反映されていて限定的だから、いくらでも広げていき、柔軟になれるというのとは違う感じもします。あとは、泣けるようになりたいと思っています。これがなかなか難しいですが。主体が不安定になる不快感にフォーカスしていると本質から外れた議論になってきますので、そんなところは泣いてすっきりして、後どうするか早く考えられるようになりたいといったことです。しかしそう簡単に都合のいいときに泣けないですね。