のりつっこみ考

金スマをちらっと見たら「中居くん」がのりつっこみをやっていた。中居くんは、本当に騙されたときのほうが、いいつっこみができるみたいだけど、のりつっこみも、そつなくこなしていた。のりつっこみは、多分、見ている人がリアリズムを感じられないと無理を感じて笑えなくなる。僕らは日常で、うすうすおかしいとは思いながら、相手が当然のようにやるから乗っかってしまって、後で憤慨するということがある。そのときの、うすうすおかしいとは思いつつ乗っかる、乗っかりながらもどこかでおかしいと感じている、そういう感じが、表現されれば、ああ、この人は、おかしな乗っかり方をしているけど、内心納得がいかなかったんだ、と、リアルな人として理解でき、共感できて、納得できて、キュートさを愛らしいと思う。一方で、つくり物っぽくなってしまうと、おかしいということをはっきり認識しながら、おかしなことをしているという、なぜそんなことをするのかわからない、謎の人物になってしまう。

他の人の例を考えると、松本さんの、言葉にならない言葉、激しいいらだちの表現は、違うんだ違うんだという切々とした感情の表現として共感できる。さんまさんは、乗っかり方が現実離れして上手で、それが演芸的に感心させる、あるいは、適切で愉快な言葉を付加してなんとかするところもあったかもしれない。さんまさんのはリアリズムではなかったか。もちろんみんな、複数の手を持っていると思うけど。タモリさんみたいに、のりつっこみは恥ずかしいと言って、控えめにしたりすると、タモリさん自身がキュートに感じられるので、面白い。(やったのを見たような見てないような)演者の素直な気持ちを言ってみるのもありだ。

昨日の金スマだと、中居くんに対する心づかいと称して、理不尽なものが一杯提出され、しかも準備に相当お金も時間もかかっている、ということで、すぐにおかしい点を指摘したらかわいそうだ、という気持ちになるのは、わかる。接待役の人が、いい人っぽくて、本当に誠実に対応しているように見えるということで、乗っからざるをえなくなる、ということもある。その流れに乗っていけばよく、のりつっこみの型にとらわれないほうがいいのかもしれない。段階として、まず型を身に付けてから壊すのがいいのかもしれないが。